自分の不幸を招く人に

大阪北斎場

昔、
あるところに一人の独身男が住んでいて、
一生のうちせめて一度でもいいからしあわせになりたいと願っていた。

毎日、
神に向かって幸福の一片でもよいから授けてくれるよう熱心に祈っていると、
その甲斐があってか、
ある夜、
彼の家の戸を叩くものがいる。

誰かと思って開けてみると、
外に立っているのは。

吉祥。

という幸福の女神である。

弁天様

男は飛び上がらんばかりに喜び、
家の中に招き入れようとした。

すると女神は、
「ちょっと待ってください。

私には実の妹がいて、
いつも一緒に旅をしているのです」といって、
後ろにたたずむ妹を紹介した。

男はその妹を見て驚いてしまった。

美しい姉とは裏腹に何と醜い女神ではないか。

「あなたのほんとうの妹ですか」といぶかると、
「・申し上げたとおり実の妹で、
名を不幸の女神黒耳と申します」という。

そこで男は「あなただけこの家に入って、
妹のほうはお引き取り願えませんか」と頼んでみると、
「それは無理な注文です。

私たちはいつもこうして、
一緒に連れ添わなければなりません。

一人だけ置きざりにするわけにはいかないのです」という。

男は困ってしまった。

幸福の女神は「お困りなら、
二人とも引き上げましょうか」となおもいう。

男はまったく途方に暮れてしまった。

以上のエピソードは『阿毘達磨倶舎論』にのっている、
幸福の女神と不幸の女神が異身同体であることを説いた一節である。

誰しもしあわせを望まない者はいない。

「全て世は事もなし」といったのどかな風景は望ましいだろうが、
世の中にはそうよい事ばかり転がっているわけがなく、
どんなにひとから羨ましがられ、
本人自身も恵まれていると思っても、
いつしかその生活の隙聞から不幸という名の風がしのび込んでくる。

しかし、
いくら不幸に陥ったからといってその苦境に迷わされず、
明日への希望を抱いてやがて不幸から脱する日のために覚悟を新たにしなければならない。

「冬来たりなば春遠からじ」とはイギリスの詩人シエリlの作『西風に寄せる賦」の一節であるが、
われわれには厳しい冬がいつまでも続くわけがない。

宮本百合子女史も「うららかな春はきびしい冬のあとからくる。

かわいいクふきのとう。

はつゅの下で用意された。

苦しいこと、
つらいこと、
これらを乗りこえて」と詠んでいる。

昔から「若い時の苦労は買ってでもせよ」といわれているが、
苦労した者ほど成長してから楽しみがふえるという。

過去の不幸や苦労と現在を比較する心のゆとりができるからで、
その点、
苦労のない者は不幸だといえるだろう。

苦しまずに楽しようとか愉しもうというのが根本から間違ってかんなんしん〈いるのであり、
「抑制難辛昔、
汝を玉にす」という言葉もあるとおり、
われわれは今のうちにつとめて。

苦労。

阿弥陀様

しようではないか。

ほんとうに苦しんでこそ、
ほんとうの生きる喜びがわかるからだ。

国目頭の文にあるように、
幸不幸を感じる善悪の心は自分以外のところに存在するのではなく、
われわれの気持の持ち方次第で、
どちらにも傾くことができるものである。

だとしたなら、
幸不幸にかかわりあってがんじがらめにされているよりも、
それらを手玉にとれるような自由な身になったほうが、
どれだけよいかしれない。

鶴見斎場