つまらぬことにこだわる人へ

大阪北斎場

ある時、
旅人が大きな河にさしかかり、
向こう岸へ渡ろうとしたが橋がなく困っていた。

さいわい河岸に丸太があったので筏をつくり、
それに乗って無事に向こう岸に渡ることができた。

岸についてからも旅人がなお筏をかついでいると、
道行く人びとが「君はどうしてそんなものをかついでいるのかね。

用がすんだら河岸に置いておくものだ」と忠告してくれた。

間抜けな旅人はハッと気づき、
「それはそうだ」といってわざわざ置きに行ったり。

旅人

世の中のいろいろな規則や戒律は、
こちらの裟婆世界(此岸)から悟りの世界(彼岸)にたどりつく手段として必要なのであって、
それにいつまでもこだわっていると「木多くして森見えず」で、
目的物を見失ってしまう。

お金をもうけることなども、
しあわせになる手段であり、
必要条件ではあるが絶対条件ではない。

それを忘れて、
いつのまにかミイラ取りがミイラになり、
自分の生活を犠牲にしてまでも金もうけのためにうつつをぬかし、
それを目的とするとかえってふしあわせになってしまう。

はらたんざんあんぎや明治の初期に原坦山という傑僧がいた。

師は修行時代によく友人と諸国を行脚したが、
ある夏、
二人で東海道を旅していると、
召使いを連れた美しい娘がおりからのにわか雨の増水で泥川を渡りかね困っているのに出くわした。

これを見て坦山はつかつかと娘に近寄り、
「さあ、
お燥さん、
人助けは出家の役、
わしが渡してあげるから、
この胸におつかまりなさい」と、
はにかむ娘をしっかり抱きかかえるや河を渡って行った。

これを眺めていた友人は心中はなはだ面白くなく、
「邪淫戒といって、
出家は女の髪の毛一本にも触れてはならない身なのに、
こともあろうに胸を抱きしめるとはけしからん」と腹を立て、
すたすたと先へ行ってしまった。

三里を行ったと思われるところで、
やっと坦山は追いつき、
「わしをおいてきぼりにして、
ひどいじゃないか」というと、
「君こそ実にけしからん。

修行の身もわきまえず、
若き女性を抱きしめるとは何事だ」といい返した。

すると坦山は「いやはやこれは驚いたわい。

わしはとっくにあの娘のことなど忘れているのに、
君はまだ憶えているのか。

あははは。

君も案外色好みだなあ」と肩をたたいたので、
友人は返す言葉もなく恥入ったという。

仏教では、
こうした何ものにもとらわれない自由無碕の境地を三昧といい、
その道の達人になると自分のほんとうにやるべきことに心が向かうと、
ほかのことは全部忘れて、
そのことに深く没頭することができるという。

一流の彫刻家なども、
一心に精魂をかたむけて好きな制作に没頭していると、
自分と彫刻そのものが一体化し、
自分がそれを作っているのか、
それによって作らされているのかわからない無我の境地に入り、
それによって名声を博そうとか、
よい出来で高く売れるようにとかいう不純な気持は一切おきないらしい。

われわれも、
ほんとうに好きなことに没頭していると、
他のことが邪魔にならず時間や空間を忘れ、
ハッとわれにかえってはじめて自分の存在に気づくような体験をすることがある。

このように、
仕事が遊びのように楽しみながらできる遊戯三味の境地に入れたらしめたものである。

鶴見斎場