生きる意味は”過程”にこそある

仏教は「仏になる」ための教え日本語で死ぬことを「仏になる」という。

いったい、
仏と憾どういう意味たのだろうか1.わたしたちが現在使っている仏教の「仏」にんべんの字、
これは1に弗と書いた「怖」の新字で、
昔は「仇」の字を使っていたのである。

この、
つくりの「弗」は、
じつは「あらず」という意味であり、
「伽」とは「人にあらず」ということをあらわしていた。

「仏」は、
もともと、
古代イソドのことばであるサソスクリット語(焚語)の〃ブッダ〃の音プグダを「仏陀」と漢字に写しとったもので、
本来は「目覚める」という意味である。

お釈迦さましやかむにせそんしゃくそん(釈迦牟尼世尊Ⅱ略して釈尊という。

紀元前六’五世紀の人)は三十五歳のときに菩提樹のもとで悟りをひらかれ、
真理の世界に目覚められた。

そのとき、
お釈迦さまは、
人間を卒業され、
たのである1.人でなくなり、
仏になられたのである。

「目覚めた人」となられた。

そういう意味で〃ブッダ〃といったのである。

このように、
「仏」とは、
本来「真理に目覚めた人」のことをいったのだから、
仏教とは「仏の教え」ということになる。

もう一つ踏み込んで「仏になるための教え」とわたしは考えたい。

しかし、
一般にはなぜか「仏」は「死んだ人」のことをいうようになり、
そのため「仏教とは死ぬための教えなんだ」と誤解されないともかぎらない意味をおびるようになった。

ここで仏教とは何かということを簡単に知ってもらうために、
かえってその逆、
現今のあまりにも非仏教的な世相をとりあげてみるほうが、
より鮮明におわかりいただけると思う。

現在の日本の世相を見るにつけ、
わたしが思い出すのは、
昭和三十五年に所得倍増論を唱えて登場した池田内閣と、
そのあとを継いだ佐藤内閣のことである。

両内閣の音頭とりで日本の歩んでいた道は、
アメリカに追いつけ追いこせの経済成長の道であった。

そういう風潮のなかで、
どんなやり方をしようと結果さえよければいいんだ、
という考え方が、
日本人のなかに定着してしまったような気がする。

それは仏教の教えとは正反対Q結果を重視する考え方が基調になっていた。

わたしはそれを「結果第一主義」と名づけている。

たとえば、
商取引ということについて見て糸よう。

商取引Ⅱ商売というのは、
もともと生産者と消費者を結びつける地道な活動である。

生産者がつくったものを消費者に手渡すことが重要で、
その努力の結果として、
利益がもたらされたわけである。

ところが、
いまの日本人は、
儲けのために商売をやっているのだ、
という意識があまりにも強い。

だから、
生産者がつくったものを消費者に届けないで、
買い占めることによって値上がりをはかるということが、
平気で行われる世の中になってしまった。

また、
教育にしても「結果第一主義」であることに変わりない。

いい高校からいい大学に入り、
一流企業に就職するl、
そのために必死に勉強する。

そのレ‐ルに乗ることのできた者は成功者であり、
途中で落ちこぼれた者は、
敗北者とされる。

このままでは駄目。

生活を犠牲にしなさい.いい大学に行か厳ければいい就職ばできない.だからいき塾へ行きなきい。

現在に安住するのではなく、
先へ先へと根無し草のように生徒を駆り立てる、
それがいまの教育ではないだろうか。

「結果第一主義」で生きると四か月と六日で一生が終わる?ノーベル賞を受賞したアナトール・フラソスというフランスの小説家が、
たいへん示唆に富む話をしている。

ある子どものところへ妖精がやって来た。

一:これがあなたの運命なんですよ」と一妖精が一つの糸まりを取り出した。

糸まりを早く引っ張れば時間はサーッと早く流れる。

ゆっくり引っ張れば時間はゆっくり流れる。

引っ張らなければ、
時間はそのまま止まっている。

子どもに不思議な糸まりが渡された。

糸まりをもらったその子は、
すぐに大人になりたくて、
糸まりの糸をどんどん引っ張った。

早く学校を出たいと思って、
どんどん糸を引っ張った。

そして、
大人になり、
恋人に出会った。

恋人に出会うと、
早く結婚したくて、
また糸まりの糸を早く引っ張った。

結婚したら子どもが欲しくなって、
また糸まりの糸を引っ張った。

そのうち年をとってきた。

すると、
老年が耐えがたくてまた糸まりの糸を引っ張った。

病気になったら、
早く治りたいというので、
また引っ張った烏む話をしている戸かくして、
その子は、
妖精から糸まりをもらってから四か月と六日で亡くなった:::アナトール・フランスは、
そシフ書いている。

これは、
結果鮪一主義で生きていけば、
この長い人生が四か月と六日ぐらいの意味にしかならないことを教えてくれる話だと思う。

わたしは、
大学の教堀に立っていたので、
学生たちにもしばしばこの話をして、
きみたちなら、
糸まりの糸をどういうふうに引っ張るか、
と答えを求めたことがある。

ブッダ

すると、
たいていの学生が、
自分たちも同じように早く引っ張ってしまうだろうと言う。

そこで、
一では、
どういう生き方がいい生き方だと思うか」と尋ねると、
ある学生から、
「糸まりに手を触れずに、
時間を止めておく生き方がいいんじゃないでしょうか」という答えが返ってきた。

しかし、
わたしは、
それは違うと思う。

糸まりに触れないでおくのは、
停滞の生活、
ある意味では退廃主義である。

そうではなく、
糸まりの糸を、
この世の時間の流れのとおりに引っ張っていく生き方、
一日を一日として精一杯に生きる生き方が、
いちばんすばらしいのではないかと、
わたしは思っている。

結果としてどうだったか、
ではないl、
毎日をどう生きているか、
どう生き為べきかが仏教の説くところなのである。